2007.08.05 (Sun)
禎子の折り鶴をNYに寄贈へ
今日、毎日新聞の記事に被爆して12歳の若さで命を落とした禎子さんによって折られた折鶴をお兄さんが同時多発テロの被害に遭ったニューヨーク市に寄付したという話が載っていて、それを読んで感動したので、ここに紹介したい。

<原爆の子の像>禎子の折り鶴をNYに寄贈へ 兄雅弘さん(Mixiニュースの8月6日付けの毎日新聞より)
被爆から62年のヒロシマには、今年も世界から多くの人たちが駆けつけ、祈り、追悼し、平和を誓った。平和記念公園(広島市中区)にある「原爆の子の像」のモデルで、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの兄雅弘さん(66)は6日、市内で小学生たちに禎子さんの短い生涯を紹介した。雅弘さんは、9月に米国ニューヨークの同時多発テロ跡地を訪れ、禎子さんが折って手元に残る5羽のうち1羽の折り鶴を現地の人たちに寄贈することを決意した。「今後五大陸の人たちに託していきたい」。大人になることを信じて折り続けた禎子さんの思いが世界に羽ばたく。
当時2歳だった禎子さんは爆心地から約1.7キロの自宅で被爆し、放射能を含んだ「黒い雨」を浴びた。原爆症による白血病を発症して亡くなった。雅弘さんも自宅にいて被爆している。
折った鶴は1000羽を超える。大半を広島市の原爆資料館に寄贈し、公開されているが、父親(故人)が残していた5羽を雅弘さんが引き継いだ。いずれも禎子さんの体調が悪化して亡くなるまでの約3カ月の間に折った。折り紙などはなく、アメの包装紙や粉末薬の包み紙だったセルロイドを一辺約2センチに切り、針を使ってていねいに折り目をつけて作った。誰もが驚くほど小さいが、精巧だ。
「あまり根を詰めて折ったら体に悪いよ」。雅弘さんは、父がそう声を掛けた際に禎子さんが「うちにも考えがあるんじゃけ」と笑顔で鶴を折り続けた姿を覚えている。「自分の病気が治ってほしいという願いでしょう。でもその一方で、大きい意味で『世界が平和になってほしい』という祈りも、今もって響いているように感じます」と話す。
寄贈は、ニューヨークのジャパン・ソサエティー(日本協会)からの招待がきっかけになった。9月7日ごろに訪米し、テロが起きた11日に同協会で禎子さんの生涯を描いた朗読劇を現地の人たちに披露する。12日には、倒壊した世界貿易センター(WTC)跡地近くにあるテロ犠牲者追悼施設トリビュート・センターで、折り鶴の寄贈式が開かれ、テロで犠牲になった日本人遺族らとも交流する予定。
テロから間もなく6年を迎え、米国でもイラク戦争を冷静に振り返り始めた時期だ。「反省の空気が米国民の中で出始めた今だから、折り鶴を贈る決意ができた。禎子が考えてくれたのだと思います」と語る。
雅弘さんは昨年11月に心臓の手術をした。体調は回復したが、不安は残る。しかし、「禎子の話をして倒れるなら本望。禎子は『兄ちゃん頑張ってね、いつも付いてるよ』と言ってくれるように思います」とほほ笑んだ。
◇国連総長もメッセージ
今年就任した潘基文(バンギムン)国連事務総長は、この日の記念式典に寄せた初のメッセージで禎子さんに触れた。「禎子さんの命は、自身が折った何千羽という折り鶴の中に生き続けています。そして、(中略)『原爆の子の像』の下に刻まれた、次の言葉の中に生き続けています。『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』」
代読されたのと同じころ、雅弘さんは広島市東区の小学校で児童ら約600人を前に語った。禎子さんの折り鶴を見せ、「禎子は家計が苦しい家族に気を遣って耐え、本当に苦しい時にだけ『お見舞いでもらったお金があるから、都合のいいときに注射を頼むね』と言った。本当に思いやりにあふれた妹だった。禎子の思いやりの心が、鶴を通じて広がってほしい」と訴えた。【吉川雄策】
◇今は一日一日がありがたい…
式典で被爆者代表の一人として献花した畦忠幸(うねただゆき)さん(76)=広島県呉市=は、旧制中学3年だった14歳の時、爆心地から約1.8キロ東の国鉄(当時)広島駅前で被爆した。学徒動員で駅の小荷物を運ぶ仕事を担当。夜勤明けで市内の下宿先に帰ろうと市電を待っていると、マグネシウムをたいたような青白い光が右側から迫った。「熱い」と感じた瞬間、吹き飛ばされた。
気がつくと、辺りは暗闇。「さっきまで太陽が照っていたのにどうしたんじゃろ。地球が裂けたんか」。半ズボンをはいたひざ下は大やけどを負い、右手の皮が垂れ下がっていた。周りの人も同様だった。下宿先にいて無事だった2歳上の兄と夢中で呉市の実家にたどり着いたが、そのまま起き上がれなくなった。
両足の筋が硬直し、歩けるまで約半年。最初の4カ月は寝たきりで、毎朝風呂をたいてもらい、温めながら筋を少しずつ伸ばした。「歩けないから家の中をはって回る。生きているより、死んだ方がよかったと思った」。畦さんは振り返る。
3年後の1948年、中国電力に入社。技術社員として、空襲で焼けた呉の市街地に新しい電柱を立て、復興に力を尽くした。ペンチを握る右手に力が入らず、時間があればリハビリとして鉄線を切り続けて克服。定年まで勤め上げた。
手足のケロイドは今も残る。若いころは軍手でケロイドを隠した。でも、今は一日一日がありがたいという。昨年からは地元の自治会長も引き受けた。「今は元気で生かさせてもろうとる。無理せず、地域のため人のためになることを続けたい」と語った。【武井澄人】
◇「ネバー・アゲイン」 留学生ら
被爆地で何があったのか。その悲惨な過去を心に刻むため、人々が世界各国からヒロシマを訪れる。「この地に原爆が投下されたことを、どう思うか」と尋ねた。
ヨルダン人男性の留学生、ヒックマット・ハドクシュさん(25)は、久間章生・前防衛相の「(原爆投下は)しょうがない」発言について話した。「何十万人もの命を奪う原爆の投下は戦争犯罪。しょうがない発言は米国に『無償の贈り物』を与えたようなもの」と、強い口調で批判した。
中国人の男性留学生、張前さん(28)は「日本が中国で残酷行為をしたのは残念だが、原爆は生き残った人も苦しませ続けている。繰り返してはならない。核廃絶のメッセージを広島から送り続けてほしい」と語った。
娘と一緒に米国からやって来た男性医師(58)は、平和記念公園で日本人から鶴の折り方を教わっていた。「何が起きたのか知ろうと広島に来た。とても悲しいことだが、本土に上陸して戦えばもっと多くの人が亡くなったかもしれない。投下の意図は、今となっては分からない」。スイス人男性でエンジニアのファビオ・ヴァルトゥリーニさん(32)は「原爆を投下したことで、戦争が早く終わったかもしれないし、しょうがなかったのかもしれない。一番大切なのは二度と繰り返さないこと」と話した。
原爆慰霊碑の前で追悼の祈りをささげたのは、ブラジル人女性で学校長をしているノエミ・アルカラスさん(48)。「罪のない子どもや市民を殺した原爆は、どんな理由であれ正当化できない」と話した。英国人女性の大学生、アンジェラ・スプロストンさん(22)は昨年、米・真珠湾を訪れたという。慰霊碑の前で、「真珠湾攻撃は軍事施設を狙った作戦。多くの一般市民を殺した原爆とは根本的に違う。投下が正しかったと主張する人は、ここに来て何が起きたかを見なくてはいけない」と述べた。
さまざまな受け止め方があったが、「ネバー・アゲイン(決して、二度と)」の気持ちは一致していた。【加藤小夜】
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『きっこのブログ』原爆は「絶対悪」
『枯れない涙』(被爆体験記)
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なんとかできなかったの?と尋ねる子供たちに原爆投下に携わった方は、もしあのまま原爆を投下していなければ日本はアメリカに侵略されていた、沢山の人命が失われていたと語りました。
非常に複雑な気持ちでした。
沖縄でおきた民間人の集団自決の悲劇や特攻隊の悲劇、日本の戦時下の国民の劣悪な食糧事情や今も後遺症が残るような行きすぎた皇民教育のことをまず考えました。
それと同時に、アジア諸国のおかれた立場を考えてみました。
原爆投下によって日本が無条件降伏したことで中国、韓国の人々が自分たちの国や言葉、名前、命の尊厳や自由を取り戻したことも残念ながら事実なのです。
日本人は加害者と被害者という二つの顔をもってる事実を忘れてはいけません。
そのことを理解した上で語りたいのですが、原爆ほどこれでもかこれでもかと人を傷つける兵器はないですね。
被爆したのは日本人ばかりではありませんし。
強制的に日本へ連れてこられた韓国人や中国人も被爆しているしアメリカ人捕虜も同様です。
また、原爆症の医療の不備や原爆症の惨さは筆舌に尽くしがたいです。
はだしのゲンを描いた被爆者である漫画家さんは、父親と姉と弟を亡くすだけでなく若い時に原爆の後遺症で糖尿病を発症したり癌にかかりました。
戦後、原爆症で亡くなった母親は、遺骨を拾うことさえ不可能なほど骨が原爆によって破壊されました。
それだけでなく戦後、胎内被爆し幼くして兄弟が亡くなった時、アメリカ管轄の広島にあった原爆の研究所ABCCの人たちが、彼の兄弟のことを研究したいと家に来たそうです。
心を壊され、家族まで奪われ、研究材料にされたり、遺骨までズタズタにされるなんて言葉もありません。
本当に身内におきたらこれほど辛いことは無いです。
本当に原爆はいらないですよ。
禎子さんの形見の鶴も心が痛いです。
彼女には、原爆がなければ未来があったはずです。
あと一週間はやくポツダム宣言を受諾していればと思うとやりきれません。
追伸
ドラえもんでは、八月十日、上野動物園で戦前おきた悲劇を下敷きにしたぞうとおじさんというお話が放送される予定です。
藤子F先生はもういないけれど、上野動物園の亡くなった象たちが作品として生き続けていることに少しだけ救われた気分です。
用事があって、神奈川県民ホールの近くに来ていました。
偶然そう言う展示があったので、日にちも何かの縁だと見てみました。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~kanazuch/tsudoi_index.htm
連れが現代アートは苦手だしタイトルも戦争なので、じっくり見る事が出来なかったけれど、
まだ、展示準備途中だった、「うつくしいくに」をひっくり返してごらんっていうのは、自分で動かせるようになっていて、良いアイディアだと思いました。
現代アートの面白い所は、場合によってさわれる事。
みんな色んな表現方法があるなと、感心しました。
人って、忘れやすい生き物だから、何度も何度も繰り返さないと、風化して行ってしまいます。
つらい戦争体験をぜひ、生きているうちに次世代の人へ語り継いで欲しいですね。
10年以上前ですが、ボストンのランドリーで年輩の台湾人に声かけられました。小さい頃日本語を教えられたと。
ちょうど、ジョイラッククラブを見て、「打倒大日本帝国」なんて横断幕を見てたので、
申し訳ない気持ちにその時はなったのですが、
日本人に良い思いを持っていなければ、日本語でなんか話しかけないと、後から思ったのです。
東京大空襲秘録写真集というの雑誌版ボロボロのがウチにあります。
これが東京?って思いますよ。。。
写真家は下のリンクに説明がある方で、隠さなければ現在残ってなかったと思います。
http://www.etmau.com/19450310/archives/2005/06/post_5.html
図書館で目にとまって借りたのですが、併せて見ると面白いのは、「マッカーサの見た焼跡、フェーレイス・カラー写真集。1945年」
新宿駅が。。。どこの田舎の駅?という感じです。
それと比較して、バートン・ホームズ「日本原景」もその前の日本の写真が面白いのですが。。。これは、戦争とは全く関係ないです。。。
http://blog.so-net.ne.jp/pegasus/2007-07-30
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