2012.01.22 (Sun)
東日本大震災における死者・行方不明者数が南京大虐殺で殺害された人数とほぼ一致
昨日、下の動画で、化繊工場に勤務するある男性が、20年間南京大虐殺について調べ続けた人がいるのを知った。その中で何よりも驚いたのが、南京の揚子江付近で1万人~3万人の中国人を虐殺したとされる第十三師団山田支隊兵士の出身地が福島であったことを知り、あぜんとした。(注:日本兵が虐殺した中国人の人数には大きな隔たりがある。詳しくは、「南京大虐殺論争」(ウィキペディア)を参照のこと。)
日本で古くから言われている迷信で、「罪を犯すと必ずその人や周りの人に後々何倍にもなって返ってくる」というのを聞いたことがないだろうか。12月の最新調査によると、3.11の東日本大震災で死亡または行方不明となっている方は約2万人となっている。その数が、第十三師団山田支隊兵士の証言による南京で日本兵が虐殺したとされる人数とほぼ一致するのは、単なる偶然か。
南京大虐殺 兵士たちの記録 陣中日記 2008 by JKzappa
日中戦争真っ只中の70年前、南京陥落時に起きた南京大虐殺。様々な論議を生み、虐殺の人数さえ両国の間で大きな開きがある。その事件について、20年間身を削るような調査を続けてきた人がいる。彼が探り当てたのは、兵士が最前線で綴った「陣中日記」。そこには日本軍が中国人捕虜一万数千人から二万人を一挙に虐殺したことが記されていた。また日記からは、勤勉に田畑を耕し家族を愛し、生きるのに懸命だった農民が、突然戦場という異常な世界に放り込まれ、殺戮者に変貌していく姿が浮かび上がる。陣中日記をもとに虐殺の軌跡を追う。
南京で何があったのか。1万数千にのぼる捕虜の「処理」に直接かかわった兵士たちが書きつづった日記には、どんな事実が記されていたか―1軒、また1軒と旧日本兵とその遺族を訪ね歩く粘り強い探索によって発掘された資料から、歴史の実像がここによみがえる。
参考:Amazon.co.jp: 南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記:小野 賢二, 本多 勝一, 藤原 彰
http://amzn.to/wQta54
ドキュメンタリーの主役は58歳の化繊工場に勤める工員。18歳から40年間会社に勤めながら、帰宅後のわずかな時間や、土日を使って20年間南京大虐殺について調べ続けた。彼が主として調査したのは、陣中日記。兵士たちが毎日、克明に記録し続けた生の声である。彼によると、証言はもちろん重要だが、それでも戦後の証言というのは変化するものだという。それはもちろん記憶違いもあるだろうが、後になって美化しようとする意識も働くのかもしれない。だから彼は証言よりも、現場で書かれた陣中日記を重視する。彼が20年間で手に入れた陣中日記は30冊ほど。何度も何度も元兵士の家にかよって、長い時間をかけて信頼を得て、やっとぽつりぽつりと語ってもらえるようになり、最後にその時の日記を見せてもらえる。一般に、兵士たちの陣中日記として製本されたものもあるが、基本的に彼はそれに重きを置かない。後で書き換えられているかもしれないからだ。この地道な努力から明らかになる歴史の重さに圧倒的される。
日本を戦争に導いた主犯は、昭和天皇だけど、政府や財閥系企業やメディアも一緒に駆り立てていた。おそらく、その顔は、原子力村のメンバーと一致するのではないだろうか。
私は非科学的なものは一切信じないけれども、この世は科学的な方法だけでは決して解明できない多くの神秘に包まれている。今回の東日本大震災も日本がこれまでに犯してきた罪を清算しないがために起こったカルマだとしたら、今こそその罪を清算するときなのではないだろうか。
【More・・・】
第7章 カルマ清算のための身魂磨き実践編人生は身・口・意の癖が形になったもの
(前略)
ここに、そのようなカルマの特徴をわかりやすく説明した一文がありますのでご紹介します。以下は『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)からの抜粋です。この文章を読みますと、原因に対応する結果が必ずしも一つずつセットとなって現れてくるわけではないことがおわかりいただけると思います。
カルマは何を意味しているというべきだろう? それは、わたしたちが身体で、言葉で、心で行なうことが、すべてそれに応じた結果をもたらすということを意味している。
「たとえわずかな毒であっても、死をもたらすことがあり、たとえ小さな種であっても、大樹に育つことがある」とは、師たちのあいだで語り伝えられた言葉である。それをブッダはこう言い表す。
「悪行を、単にそれが些細なものというだけで見過ごしてはいけない。小さな火花ひとつで、山ほどもある積みわらを焼きつくすことができるのだから。ささやかな善行を、それが恵みをもたらすことはあるまいと、見過ごしてはいけない。小さな一滴の水の雫(しずく)も、やがては大きな器を満たすのだから」。
わたしたちの行為の結果は今はまだ熟していないかもしれない。だが、いつか必ず、ふさわしい時と場所を得て、それは成熟する。普通わたしたちは自分のしたことを忘れる。そしてはるか後になって、その結果がわたしたちに追いついてくる。その頃にはそれを原因と結びつけることはできなくなっている。(中略)
わたしたちの行為の結果は遅れてやって来る。来世になることもある。そして、その原因をひとつに特定することはできない。なぜなら、どんな出来事も、ともに熟した多くのカルマのきわめて複雑な複合体であるからだ。そのためわたしたちは、物事は「偶然」起こると考え、すべてがうまくいくと、それをただ「幸運」と呼ぶ。(中略)
ブッダが言ったように、「今のあなたはかつてのあなたであり、未来のあなたは今のあなた」なのだ。パドマサンバヴァはさらに言う。「過去世の自分を知りたければ、今の自分の状態を見ることだ。来世の自分を知りたければ、今の自分の行ないを見ることだ」。
つまり、来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まるということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。
―― 『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ・著/講談社)
ここで、この文章の内容に沿って「カルマの法則」のポイントを次の6項目に整理してみました。
(1)カルマは私たちの行為、言葉、思念の結果として現れる。
(2)カルマの原因が小さなものであっても、やがて大きく育っていく。
(3)育ったカルマは相応しいタイミングで、人生に結果をもたらす。(その結果は、生まれ
変わった次の人生の中に現れることもある)
(4)結果が現れるまでに一定の時間が経過するため、人はその結果がどの原因による
ものかがわからなくなっている。
(5)人生で遭遇する出来事は過去のカルマの複雑な複合体なので、原因をひとつに特
定することは難しい。
(6)カルマの大きさを左右するのは行為の大小ではなく、行為の裏にある意志や動機で
ある。
(後略)
第四章 不幸の寄って来たる原因
「捨邪帰正の勧め」目次
世の中の不幸の根本原因
第二章でも触れたように、日蓮大聖人の仏法は、私達の生命の奥深く内在する仏の生命力(これを「仏界」ともいいます)を開発し、真の幸福を獲得していく、唯一最高の大法です。
では、もし、この大法に従わず、背いていった場合には、いったいどうなるのでしょうか。
この大法に背くこと――すなわち、我が胸中に仏界という最高の生命力を引き出すための法に背くということですから、それは、かえって自分の中の仏界を、覆い隠し、破壊することになってしまいます。そのために生命力はしぼみ、その、しぼんだ生命力で人生を生きていく結果、仕事上、健康上、精神上と、あらゆる面にわたって諸々の行き詰まりが生じ、次第に、悩み苦しみに煩悶する人生に陥っていくのであります。
すなわち、世の中の一切の不幸の寄って来たる根本原因が、ここにあるのでありまして、これを通常、仏法では、「罰」と呼んでおります。
ここで注意したいことですが、普通、罰といいますと、人間を超越した絶対者(神仏)がいて、忠実な者には恵みを与え、背く者には罰を与えるのだ、といった捉え方がされているようです(事実、キリスト教の旧約聖書によれば、背徳の町ソドムとゴモラが、神の降らせた硫黄と炎によって滅ぼされた話などが説かれています)。
しかし、仏法でいうところの罰とは、このような、神や仏から与えられるといった、迷信の類いではありません。
誤解を招かないためにも、さらに、わかりやすく説明を加えておきましょう。
罰とはルールに反して生ずるもの
まず、私達の身近な例として、交通法規とういうものがあります。これは、いちおう、社会に生活していく上でのひとつの法(ルール)であります。
この交通法規が存在しているにも拘わらず、もし、これに従わず、信号・標識・規則・等を無視して通行したならば、どのような事態が起こってくるでしょうか。申すまでもなく、必ず、事故を起こすなどの反価値(マイナス)な現象が生じてまいります。
しかも、その場合に、たとえ「自分は山奥から出て来てルールを知らなかった」「そのようなルールを学んだことがなかった」といっても、知ると知らざるとに拘わりなく、従わないこと自体が反価値を招く原因なのですから、ルールの適用を免れることはできません。
また、もちろん、交通法規を知っている者が、あえてそれに逆らい、すべてが逆に逆に行動したならば、知らずにルールに従わなかった人よりも、さらに激烈な大事故等の反価値現象を引き起こすことは、申すまでもありません。
以上は交通法規の例ですが、この他にも、私達の生活上にはさまざまな法(たとえば、国の法律、世間の常識など)があって、それらのルールに従わず、背いたときには、やはり、それ相応のマイナス現象が生じてきます。
このことは要するに、ひとつの法(ルール)が存在するにも拘わらず、自分がそれに従わなかったならば、結果としてマイナスな現象を招く、という道理でありまして、それも、他の誰かがマイナス現象を与えるのでなく、いわば、マイナス現象(不幸)の中へ飛び込んでいくようなものであります。
仏法でいうところの罰という考え方も、じつは、基本的にはこれと同じ考え方である、といえましょう。
つまり、罰とは、神や仏などの絶対者によって与えられるものではなく、法(ルール)に反した、自分自身の生き方から生ずるものなのです。しかも、その法とは、自らの生命に内在する仏界を開発し、真の幸福生活を築いていくための、いわば人生の根本の法です。この根本の法に従わないから、生命力がしぼんで、さまざまな不幸が生じてくるのであり、これこそ、人生の、もっとも根源の不幸の原因にあたるのであります。
前にあげた、交通法規や国の法律などの種々のルールは、特定の時代や環境、また生活のごく一部分に適用される、浅く狭いルールでありましたが、それでさえ、無視すれば大きな事故や苦しみを招きます。ましてや、人生の根本法たる仏法に背く罰はまさに想像を絶するほど重く、厳しい、と知るべきでありましょう。
なおまた、前の例で、「交通法規を知らなかった」といっても交通事故から逃れられないのと同様、これまで、この日蓮大聖人の仏法のことをしらない、聞いたことがなかった、という人であっても、これに従っていないということ自体、法に外れている、反していることでありますから、罰を免れることはできません。
つまり、この大法に従っておらめ人は、誰一人の例外なく、すでに、罰によって種々の不幸を受けていることになります。
事実、自分自身も含め世の中の人々の姿を、よくご覧ください。たとえ、うわべが幸福そうに見える人であれ、一歩内側まで立ち入ってみれば、経済的な苦しみとか、病苦、家庭不和、対人関係の悩み、人格的欠陥、性格的な悩み等々、誰もが必ず、さまざまな問題を抱え、悩み苦しんでいるではありませんか。
経典に示される罰の有様
ちなみに経典には、この罰の具体的な有様を、次のように説いております。
「眼・耳・鼻・口等の諸器官が正常に働かず、いわゆる奇形や不具・身体障害といった姿を現ずる。
語ることを、周囲の人が信じてくれなくなる。
口より悪臭を漂わせ、しばしば金縛りにあったり幽霊・物の怪の類を見るようになる。
貧苦のどん底となり、他人に酷使される立場となる。
身体に多くの病気をもち、痩せ細ってしまう。
頼るべき人がなく、また人に親しく接していっても相手はそれほど心に置いてくれない。
所得収入があっても、次々に支出してしまって、生活苦に陥る。
もし、自ら医者となって病人を治療すれば、医療ミスを犯して、かえって他の病気を引き起こしたり、死亡せしめてしまう。
また、もし自分が病気になったときには、これをよく治療できる医者がなく、たとえ特効薬を服用したとしても、ますます病状が悪化したり、他の病気を併発してしまう。
周囲の人々に裏切られたり、また、他人に金品や財産を騙し取られ、あるいは盗み取られる。
以上のような不幸が、我が身に、次々と起こってくるのである。」(法華経譬喩品第三)
「常に悩み苦しみにさいなまれたり、足ることを知らぬ貪欲な境涯となったり、あるいは、動物のように本能だけで行動する人格・境涯となってしまう。
貧苦に陥り、痛々しいまでに貧相な姿となる。
身体に、水疱(すいほう)や瘡蓋(かさぶた)白斑や出来物などの病が起こり、次第に拡がっていく。
常に身体から悪臭を発散する体質となったり、垢や汚れを落とすこともできない生活状態となる。
自分勝手な妄想や曲がった見方・考え方に捉われ、そのために、腹立たしさや苦しみを自ら増していく。
淫欲が盛んとなり、動物のごとき行ないとなる。(同品)」
「癩病(らいびょう)等の業病にかかる。
歯肉の病気等により、歯がすき欠けていく。
いわゆる三つ口や、口曲がり、鼻筋が無くなる等の、悪相が現れる。
手足の骨の病により、通常の生活や歩行が困難となる。
左右の眼球の位置が狂い、やぶ睨みとなる。
身体から悪臭を放ち、膿の混じった血が出るような皮膚病となる。
腹水がたまり、命が短くなる。
その他、諸々の悪重病が起こってくる」(法華経普賢品第二十八)
「心が荒んで、常に煩悩にさいなまれたり、人を殺したり、諍いばかりの日々となったりする。また、他人を罵って無実の罪を被せたり、被せられたりする。」(金光明最勝王経四天王護国品)
「人としての良識に外れた行いが甚だしく、また、貪欲で、怒りっぽく、筋道のわからぬ人格となり、親を親とも思わない、畜生のような恩知らずになってしまう。
短命になったり、虚弱体質になったりして、毎日に覇気も喜びもなく、薄幸な日々を送って苦悩する。(大集月蔵経法滅尽品)
「一に経済苦、二に諍い、三に病苦。その他、諸々の災厄が次々と身に起こり、親戚にも背かれる」(大集経虚空目分護法品)
これら、人生の諸々の不幸なる現象は、すべて、この大法に背くことによって起きた罰だというのであります。この厳然たる事実を知らず、また知っても重ねて背き続けていくならば、なお深重な不幸の原因を積み重ねることになってしまいます。そして、これによって生ずる至極の罰は、
「頭(こうべ)破(わ)れて七分になる(頭破七分(ずはしちぶん)」(法華経陀羅尼品第二十六)
といって、物理的に頭部や脳を損傷して非業の死を遂げる、あるいは、心が常に不安と苦しみにさいなまれて通常の生活ができなくなる。精神分裂やノイローゼ等の異常をきたす等々――、自らの人生を破滅させてしまうほど重いのであります。
なんとも恐ろしいかぎりではありませんか。
真の大苦悩は死後に訪れる
このように、正しい仏法に背くこと(これを「謗法(ほうぼう)」といいます)の報いは、人生にあらゆる不幸を引き起こすのでありますが、じつは、これとて、謗法が招く真の大苦悩の、まだまだ一分でしかありません。そして、その真の大苦悩ということについては、世の中の人々も、ほとんど気付いていないのが実状なのです。
では、それは、いかなることかと申しますと、経文に、
「謗法の者は、命が終わった後、無間地獄(絶え間なく大苦悩を感じ続けていく境涯)に陥る。そして、永劫という長きにわたって、大苦悩を繰り返し受け続けるのである」と説かれているところの、死後における無間地獄の苦しみのことであります。
ただし、ここで早合点しないでいただきたいのは、地獄といいましても、この世界の他に、何か、地獄という別な次元の世界があって死後、そこで鬼に責められて苦しむ、というわけではありません。
これについて少々説明いたしますと、私達が眠っている場合に、実際は布団の中に身体があるにも拘わらず、ジャングルで猛獣に追い回されたり、水に溺れたり等、さまざまな悪夢にうなされ、現実に苦しみを感じているのです。
それと同様に、この現実の世の中を離れて地獄という世界が存在するわけではないのですが、死後の生命は、それまでに自らが積み重ねてきた謗法の悪業によって、厳然と地獄の大苦悩を感ずるのであります(その地獄の苦悩とは、概していえば、燃え盛る溶岩の中で我が身を焼き尽くされる苦しみ、といわれています)。
しかも恐ろしいことに、死後の生命は、もはや主体的な意志や行動をもたない受動的存在ですから、自らが積んだ悪業をそのまま感じ続けていくしかなく、身を焼き尽くされる地獄の苦しみを感じていても、それから逃れようとする行為すらとれません。ゆえに、この大苦悩を、一瞬一瞬、絶え間なく感じ続けていくことになるのであります。
この無間地獄の苦しみが、どれほど凄まじいものであるかについては、経典にも、あまり詳しくは説かれておりません。何故なら、それを詳しく説き聞かせれば、聴いた者が、ショックのあまり吐血して死亡することすらあるからだ、というのです。もって、その凄まじさを知るべきでありましょう。
その決定的証拠は「臨終の相」だ!!
さて、このように述べてまいりましても、世の中には、「死んでしまえばおしまいだ」「死ねば一切は無に帰するのだ」といって、死後の生命すら認めない人々大勢おります。そして、この見解こそが科学的だ、と考えているようです。
しかしながら、そうした「死ねば無に帰する」という見解には、じつは、何ひとつ証拠がなく、すべて想像に基づく考えにすぎない、ということを知らなくてはなりません。また、科学的といってみたところで、現代の科学は、いまだ、生物と無生物の境界を明確に規定することすらできず、まして、生命の死後という問題については、まったくの領域外、手も付けられない現状ではありませんか。
一方、私共が、「生命は死後にまで継続する。そして、もし謗法を犯せば、死後は無間地獄に堕する」と主張していることには、動かしがたい、決定的な証拠があるのです。それは、いわゆる「臨終の相」であります。
仏法においては、「臨終は、生と死の境、死後への第一歩であるから、臨終の姿は、その人の死後の状態を如実に顕している。しかして、謗法を重ね、死後、無間地獄に墜ちた人は、必ず、その臨終および遺体に悪相を現ずるのである」として、次のような状態を「堕地獄の相」として挙げています。
①集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。
②手で空をつかんで、もがき苦しむ。
③筋道の通った思考を失う。
④恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。
⑤大小便が垂れ流しとなる。
⑥苦しみのあまり、目を固く閉じてしまう。
⑦苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。
⑧異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。
⑨身体や口から腐敗臭が漂い出る。
⑩恐怖のあまり、手足を震わせて怖れおののく。
⑪鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。
⑫白目を剥きだしてしまう。
⑬目が血走って真っ赤に変色する。
⑭顔面を伏せて、苦しみ、うめく。
⑮苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。
(守護国界主陀羅尼経)
「破れた皮膚から膿が流れ出したり、全身に熱い汗をかいて苦しむ。」(新編363頁)
「狂乱して絶命する。」(新編314頁)
「眼、あるいは耳、鼻、口、毛孔などから、血を吹き出す。」(法華伝)
「死後、遺体の色がどす黒く変色し、皮膚が収縮して骨がはっきり顕れる」(新編1023頁)
「遺体が固く硬直し、ずっしりと重く感じる。」(新編1290頁)
こうした、仏法で説く堕地獄の相を、現実に引きあててみると、まさしくそのとおりで、謗法の心の強い人ほど、その臨終と遺体の上に悪相を現じております。
これに対し、正しい仏法を信仰した者においては、悪相どころか、かえって、目を疑うほどの善相を示しています(次章で詳述)が、このような死相の違いこそ、生命が死後にまで継続していることを証明するものではありませんか。すなわち、死後の生命が存するからこそ、そして謗法者が死後に無間地獄に墜ちているからこそ、謗法者の臨終に堕地獄の相が顕れるのであり、これ、死後の恐るべき大苦悩が、その死相に厳然と顕れたものに他ならぬのであります。
謗法こそ幸福と安穏を奪うもの
以上、縷々申し述べてきましたが、正しい仏法に従わないかぎり、誰一人の例外なく種々の罰あって、今生・後生(死後のこと)にわたり不幸を免れることはできません。
さらにいえば、国家・社会も個人の集合したものでありますから、もし、国中に謗法の心強き人人が充満した場合には、政治・経済も世情・治安も乱れ、人災等が続発して、ついには一国の衰亡という事態を招くことになります。
したがって、真の幸福と安穏を願うならば、まず、不幸の根本原因たる謗法(なかんずく、第三章で触れた邪宗信仰などは、謗法の中の大謗法です)の心を捨てて、願って正しい仏法を信仰させていただくことが、もっとも肝要であります。
私は、実際に虐殺を行った兵士に罪があるとは思わない。誰だって、戦場という特殊な状況では、異常な心理状態となり、軍の上層部の命令に従うのが当然だ。もし、逆らったら、自分が殺されてしまうという恐怖もあったかもしれない。誰よりも、罰せられるべきは、戦争を勃発させた者やいまだに彼らに協力して嘘をついている兵士らである。
日本人を恐怖のどん底に貶め、いまだにその罪を認めず、さらに原発再稼動させようとしている戦争を勃発させた者と重なる原子力村の人々の死相は、一人残らず壮絶なものになるだろう。

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にもかかわらず、このエントリでのべられたような悪相は一切でずに満願かなったようなわが人生に一片の悔いなしと言いたげな満足げな笑みをうかべて大往生を遂げました。これはいったいどういうことなのでしょうか。
(最初に投稿したエントリに追記する形で)
ときにvanacoralは、このエントリをはてなブックマークし批判的な意見「こういのが脱原発唱えてるのも、3.11福島県民集会に福島県から抗議が多数寄せられる遠因なのだろうな 」というのを寄せてます。
反感を持つ気持ちはわからぬでもないですが、現実をはっきりと見て、それに向き合わなくては前には進めないと思います。