2011.04.25 (Mon)
保坂展人氏が脱原発を訴え世田谷区長に初当選
国民は本当に政府が東日本大震災や原発事故の対応を評価しているのだろうか。産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が23、24両日に実施した世論調査では、東京電力福島第1原子力発電所の放射能漏れ事故への政府の対応を76・4%が、被災地復興や被災者支援についても62・7%がそれぞれ評価せず、後手に回る菅直人政権への批判が強まっていることが分かったそうだ。
菅が民主党代表になってからというもの、昨年の参議院選、今年の統一地方選と惨敗が続いている。また、菅政権は、その震災や原発事故への災害対策の失敗で国民の信頼を完全に失ってしまった。政治体制が弱体化しているのは明らかであり、達増拓也知事が言うように、小沢一郎元党代表を要職に起用し、政治体制を強化するべきである。
多くの民主党議員も菅内閣の災害対策の失敗が、今回の地方選の敗北につながったと見ており、地方選の結果を受けて今週首相交代に向けた動きが活発化しそうだ。「解けた「菅降ろし」の封印 首相交代へ3つのシナリオ」と題された産経の記事によると、発火点になり得るのが、26日にも発足する議員グループ「総調和の会」で、主要メンバーは小沢系の山岡賢次副代表、田中真紀子元外相、鳩山由紀夫前首相に近い中山義活経済産業政務官ら。執行部に両院総会の速やかな開催を要求し、ここで代表解任の緊急動議を可決させる青写真を描く。さらに、内閣不信任案の可決、自発的退陣の勧めなど、小沢一郎元代表らは5月2日に予定される平成23年度第1次補正予算の成立を待って、一気に総力戦を仕掛ける構えだという。
野党第一党の自民党も週明けから、菅政権打倒に向けた動きを加速させる方針で、国会では東日本大震災をめぐる首相の失政への追及を強めるとともに、民主党の「菅降ろし」の動向をにらみつつ、内閣不信任案や首相問責決議案の提出時期をはかる考えを表明している。
政治の混乱が続く中で、久しぶりに嬉しいニュースとしては、東京都の世田谷区長選挙で、「脱原発」を掲げた元衆議院議員の保坂展人氏(55)が初当選した。保坂氏は、社民党を離党して無所属として世田谷区長選に立候補していた。保坂氏の勝因の一つに原発依存から脱却し、自然エネルギーへの転換を訴えたことが挙げられる。
保坂さん、ご当選おめでとうございます。保坂さんは、とてもユニークな経歴をお持ちで、中学生時代、学生運動の経歴などを書かれたために受験した高校を不合格となり、千代田区教育委員会を相手取り提訴(内申書裁判)し、その判例は現在も重要判例として認識されているそうだ。これまでの政治活動を見ても、お上の言うことなんて聞きそうもない保坂さん。世田谷区民にとって、とても頼もしい世田谷知事になるだろう。
【More・・・】
解けた「菅降ろし」の封印 首相交代へ3つのシナリオ2011.4.25 02:48
「菅降ろし」の封印が解けた。東日本大震災の発生で自粛気味だった菅直人首相の退陣論は、統一地方選で民主党政権への厳しい評価が明らかになったことを受けて、再び動き出した。小沢一郎元代表らは5月2日に予定される平成23年度第1次補正予算の成立を待ち、一気に総力戦を仕掛ける構えだ。一方、震災対応を「宿命」と位置付け、続投に執念を燃やす首相は持久戦に持ち込もうとしている。両者の思惑を探ると3つのシナリオが浮かび上がる。(坂井広志)
■両院議員総会
統一地方選の開票作業が進んでいた24日夜、都内のホテルで、小沢氏と国民新党の亀井静香代表が向き合っていた。
「あなたの卓越した能力が必要なので表に出てきてくれないか」
首相の名代を名乗る亀井氏は超党派の「復興実施本部」への協力を求めた。
「知恵を出すのはやぶさかではないが…」と小沢氏。首相の延命に手を貸すことはしない-。そう語ったに等しかった。
選挙の季節が終わるのを待っていたかのように、首相交代に向けた動きが活発化してきた。第1のシナリオとして有力視されているのは、民主党の両院議員総会を舞台とした菅首相の党代表解任作戦だ。
発火点になり得るのが、26日にも発足する議員グループ「総調和の会」。主要メンバーは小沢系の山岡賢次副代表、田中真紀子元外相、鳩山由紀夫前首相に近い中山義活経済産業政務官ら。執行部に両院総会の速やかな開催を要求し、ここで代表解任の緊急動議を可決させる青写真を描く。
メンバーの一人は「小沢グループは衆参で120人近い。鳩山系や中間勢力を取り込めば、緊急動議の可決に必要な過半数は超える」と計算する。
ただ、代表解任が議決されても、首相は規約の不備を盾に居座りを決め込むことができなくはない。自民党の党則には、国会議員と都道府県連代表の過半数の要求で総裁選を実施できる事実上のリコール規定があるが、民主党規約は両院総会で代表を選ぶ条件を「代表が欠けた場合」と定めるだけだからだ。
■内閣不信任案
第2のシナリオは内閣不信任案の可決だ。
「いま代表選をすれば民主党議員約400人のうち300人は小沢先生を支持しますよ」
12日、都内の私邸で開いた懇親会。小沢氏はある側近議員からこうおだてられると「それは代表選の話だろ?首相交代の話とは違う」とたしなめた。300人という数はオーバーにしても、その後の小沢氏は「首相を退陣させるには内閣不信任案しかない」と繰り返すようになった。
内閣不信任案が可決されれば、首相は10日以内に衆院の解散か総辞職を選択しなければならない。大震災で総選挙が物理的に不可能となった今、首相に残される道は退陣以外にない。
内閣不信任案を可決するには、衆院の民主党会派(306議席)から70人以上の造反が必要だ。小沢グループは衆院だけで約90人おり、十分可能な数字だ。
小沢氏が内閣不信任案にこだわるのは、三木武夫首相に退陣を迫る昭和50年代初頭の「三木降ろし」がいかに難航したかを知っているからだ。当時、当選2回だった小沢氏は「首相が自ら辞任しないならば、国権の最高機関(国会)で対抗するしか勝ち目はない」と考えているのだ。
だが、内閣不信任案は基本的には野党の提出を待つしかない。しかも与党議員が賛成票を投じれば離党するのが筋だ。小沢氏が鳩山氏ら他グループとの連携を重視するのは、圧倒的な数の力で「造反」を正当化し、党内にとどまることを画策しているからだろう。
■花道論
党分裂を回避するためのシナリオが自発的退陣だ。首相は5月26、27両日に仏ドービルで開かれる主要国首脳会議(サミット)に出席する。党内では「檜(ひのき)舞台で復興を高らかに宣言し、これを花道に後進に道を譲る」という美しきストーリーもささやかれる。
しかし、当の首相は18日の参院予算委員会で「任期は2年半後に来るので歴史的な使命を果たせれば本望だ」と語ったように、長期政権を思い描いている。
「菅さんは安倍晋三、福田康夫両元首相のように簡単に辞めない。可能性が高いのは衆参ダブル選挙だ」
岡田克也幹事長は19日、若手議員との懇談会でこう話した。衆参同日選ならば平成25年夏となる。今回の統一地方選で有権者の明確な審判を突き付けられた首相に、果たしてそんな居座りが許されるだろうか。
統一地方選:世田谷区長選 保坂氏「原発依存脱却を」
毎日新聞 2011年4月25日 1時53分(最終更新 4月25日 3時49分)
午後11時20分ごろ、激戦を制し初当選を果たした保坂氏は、「ホサカ、ホサカ」のコールを受けて、事務所に登場。拳を突き上げた支持者と喜びを分かち合った。
◇福島訪れ出馬決意
社民党の衆院議員を3期務めた保坂氏は、「国会の質問王」の異名を取った。東日本大震災発生前は、国政の舞台への再挑戦をあきらめる気持ちはなく、出馬の打診を固辞していたという。しかし、震災発生後の3月26日に被災地となった福島県南相馬市を訪問し、桜井勝延市長と面会したことが転機となった。災害で基礎的自治体の長の担う役割の重要性を再認識し、「すぐにでも仕事がしたい」と出馬に踏み切った。
保坂氏は、「一人一人の住民が参加してまちをつくり直したい。災害への備えは一番大事だと思う」と抱負を述べた。
福島第1原発事故の収束が見えない中での選挙。電力の大消費地にあって、防災の必要性とともに脱原発を果敢に訴えた。当選後のインタビューでも「やはり一番危険な原発から停止を求めていくことは必要」と話した。
当面は「区内のエネルギーの消費状況を総点検して、エネルギーシフトを先導する区としてほかの地域がやっていないことに大胆に取り組んでいく知恵を集めたい」と意気込みを語り、大きな拍手を浴びた。
区長選には、都議会の民主会派を離脱し、自民都連の支援を受けて出馬した花輪智史氏(44)、自民の地元総支部が推した川上和彦氏(52)、民主の独自候補である菅谷康子氏(36)らも出馬し、混戦となった。民主、自民ともに一枚岩ではなかったことも保坂氏には追い風となり、原発を容認する4選を果たしたばかりの石原慎太郎知事も応援に駆けつけた花輪氏に、5500票余の差で競り勝った。
勝因について保坂氏は「原発依存から自然再生エネルギーへと訴えたことや、心ある被災地支援を徹底しようと呼びかけたことが評価された」と分析した。【神足俊輔、長野宏美、石川隆宣】
保坂のぶと氏 世田谷区長当選
(Fonte 11-04-25)
4月24日、東京都・世田谷区長選挙が行われ8万3983票を獲得した保坂のぶと氏が当選した。保坂氏は中学生時代、学生運動の経歴などを書かれたために受験した高校を不合格となり、千代田区教育委員会を相手取り提訴(内申書裁判)。判例は現在も重要判例として認識されている。また、管理教育について疑問を呈した「学校解放新聞」を発行するなど、子どもの側に立った教育ジャーナリスト活動、市民運動を展開。衆議院(3期)時代は、教育基本法、共謀罪、死刑制度など幅広い分野で質問。「国会の質問王」と呼ばれた。本紙にはコラム、インタビューなどで登場。2003年9月21日に「登校拒否を考える会」が主催して行なった保坂展人さんの講演抄録をアップする。
●内申書裁判
私は中学校から高校に進学する際、内申書に書かれた内容のため、受験で落とされたことがあります。内申書には「決められた校則を平然と無視し、禁止されているビラの類を発行し続けた。教師の説得をちっとも聞かず、たいへん手を焼いた」といったことが書かれた。1971年のことでした。
その後、この件は裁判で争い、7年後の一審判決では私が全面的に勝ちました。しかし高裁判決では敗訴し、最高裁判決でも負けてしまいました。
しかし、判決では負けましたが、この裁判を通して、内申書に「この生徒は気に入らないから落としてしまえ」というようなことは書けなくなった。日本中の学校現場で、そういうフリーズがかかったわけです。それから、内申書の公開という議論を呼び起こして、情報は誰のものかが問われるようになった。ですから判決では負けましたが、社会的な効果においては、主張を実現することができた裁判だったと言えます。
●自分の意見を言うと
私が通っていた中学校は、麹町中学校という進学校で、小学校ののびのびした空気とはまったくちがいました。中学校に入ってすぐ、教師から「君たちは“受験”という二文字にすべてを捧げなくてはならない」「やる気のない奴は後ろに行け」と言われ、一番前のかぶりつきの席にいたのが僕でした(笑)。そういうふうだから、1~2カ月もすると、多くの子が、もう世の中まったく面白くないというように表情が悪くなっていく。僕も成績がどんどん落ちていきました。
しかし、そのころは、むさぼるようにいろいろな本を読んでいました。それで、学校の言うことを全部受けいれて消化するようなことでいいのか、と思うようになりました。
あるとき、国語のテストで出題の選択肢を選ばず、自分の意見を書いたら、大きなバッテンがつけられ、よけいなことを書いているからマイナス20点だと言われました。そこで僕は模造紙を買ってきて、その答案用紙を教室の壁に貼りつけ「こんなテストをやってるから、みんな小説がきらいになるんだ」と書いたんです。それは本校はじまって以来の珍事として問題になった。
その後、自作の新聞を発行したり、「中学全共闘」なんていうのをつくったりしましたが、僕は非常に気が小さくて、本当におとなしい少年だったんです。自分が学歴社会のエリートコースを踏み外すというのは、絶対にできないだろうと思っていました。
しかし文化祭のとき、ちょっとしたイタズラをしたのがきっかけで、中学3年生の1年間は、授業に出してもらえなくなりました。
●高校は自由だったが
その後、内申書のために受けた5つの高校を落ちたわけですが、都立新宿高校の定時制に、かろうじて入ることができました。しかし高校でも、授業は受けませんでした。新宿高校はとても自由だったので、生徒会でロックコンサートをやったり、山本義隆(元東大全共闘議長)を呼んだり、やりたい放題にやっていました。女子生徒が亡くなる事件が起きたときは、学校にテントを張って1カ月半も住み込んだり、問題提起をして、全校で話し合ったりしました。
しかし、ちょうどそのころ、連合赤軍事件があったんです。これは衝撃的でした。学生運動も先鋭化して、仲間どうしで殺しあうようなことになっていた。その時点で、こういう学生運動をこれからやっていっても先はないな、と思ったんです。それまでは、どこか学生運動に乗っかって、学歴社会やふつうの生き方を否定しようとしていた。しかし、それが信じられないとなると、どうしたらいいかわからない。それで、学校をやめたんですね。
そのころは、非常に苦しい日々でした。なんだか全部、調子が狂ったんですね。ばちっ! と切れちゃった感じです。たった一人になってしまった。
●一審に勝って
ですから、裁判で証言をするというのは、唯一の自己確認で、自分がどこに立っているかを確かめる作業でもあったなと思います。裁判では、その時代の中学生がなぜそんなことをしたのかを記録に残したいと思って語りだしたんですが、それに対して裁判官は、異例なほど時間を割いてくれたんですね。結局、3回にわたって合計6時間、いまみたいな話をした。
そして、一審では「この少年は若い時期にありがちな誇大妄想はあったにしても、問いかけを持って学校教育のなかで発言していただけで、それが校則に触れていたとしても、言論の自由・表現の自由を知らせるわが国憲法の権利は保護されている。したがって、学校はまちがっていた」という判決が出たんです。これには、びっくりしました。
判決後、各地から手紙がたくさん来ました。なかには「保坂さんが麹町中学で言っていたことは、いま私の身のまわりで起きています」というものもありました。それがいじめだったり、校則だったり、体罰の話だったり……その手紙の束を見たとき、僕はやっぱり、その裁判をやってよかったと思った。僕が学校でぶつかったことは、ひょっとしたら日本中の小・中学生に広がっているのではないか。僕は僕の体験を持って、小・中学生の声が聞けるんじゃないか、と。
そのころ、月刊『明星』と『セブンティーン』という二つの雑誌で取材活動をはじめて、何か事件が起こればすぐ飛んで報告をするということをやっていました。
たとえば戸塚ヨットスクールでは、リンチによって3人の少年が死に、2人の子どもがフェリーから飛び込んで消息を絶ちました。それでも校長の戸塚宏はヒーロー扱いされた。「登校拒否の子は人間じゃない。人間じゃないから人間にしてやってるんだ」というようなことを平然と言っていました。僕は、実際に戸塚ヨットスクールに行って、そこで寝起きしている子どもや逃げてきた子に会って話を聞きました。
●いじめ自殺事件
そして時代はさらに混迷を深めていき、86年、東京中野区の富士見中学で鹿川裕史くんが自殺をするという事件がありました。「お葬式ごっこ」などのいじめがあって、「このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」という遺書を残して、盛岡駅で自殺したんですね。そして、亡くなる1時間前に彼が買った本のうちの1冊が僕の本だった。それは、「いじめで死んではだめだ」ということを書いた本だったんですね。
僕は「いじめで命を絶つな」ということを、『明星』の誌面を通して訴えました。そして、大勢の若い人から、「自分も今、苦しんでいる」という便りをいただきました。
●いじめには119番を
94年、僕は交通事故に遭って救急車で病院に運ばれました。今ここに立っているのが不思議なくらいの重傷でした。
ちょうどそのころ、大河内清輝くんのいじめ自殺事件があって、7年前の鹿川くんのときと同じことがくり返されたわけです。
そのとき、僕は「これは119番が必要だな」と思ったんです。そのころ「いじめ110番」とよく言ってたんです。しかし110番というのはよくない。ケガで横たわっているときに、どっちが悪いんだと言っていても、本人は困る。まず救出することが大事だ。僕は自分がベッドに横たわりながら、そう思いました。
そういう話をNHKの『クローズアップ現代』で話しました。「子どもたちがいよいよとなったとき、どうやって命を救うシステムをつくっていくのかを本気で考えようじゃないか」と。そうしたら、これも反響がすごくありました。
●チャイルドラインの発見
もう一つ、入院中の収穫がありました。ニュースでイギリスのいじめの現状を取り上げているのを見て、僕は直感的に、ここに行けば絶対何かあると思ったんです。そして1カ月後にロンドンに行ったんです。
行ってみると、日本と変わらない状況があった。学校の保守的な秘密主義、いじめを受けて追いつめられ、人が信じられなくなったり、ものが食べられなくなったり……そういう話がたくさんあった。そのときに見つけたのが、チャイルドラインというイギリスのホットラインだったんです。イギリス全土にネットワークがあって、認知度が非常に高い。アンケート結果では、本当に困ったときに相談する対象の1位が友だち、2位がお母さん、3位がチャイルドラインでした。
退院後、世田谷区議会で僕はチャイルドラインの話をして、地域で民間グループが呼びかけて一大論議をしようじゃないかと呼びかけたんです。そこから「世田谷こどもいのちのネットワーク」が生まれ、500人以上の地域の親や子どもたちが集まって、その問題について徹底的に議論しました。
チャイルドラインについては、議員になってからも国会で質問をして、「ぜひ日本全国でやりましょう」と呼びかけました。その後、これは“連立与党合意”に入って、超党派の議員連盟ができたり、NHKでチャイルドラインをやったり、動きは広がっています。現在、チャイルドラインは全国各地に40団体ぐらいに広まっています。
●国会議員になって
国会議員になったのは96年のことです。それまでフリージャーナリストとして、いろんな問題を書き訴えてきました。でも、実現したことはそんなにありません。それが国会議員として活動することで、制度を変えることができる。それで、いろんな問題に取り組んでいきました。
国会議員になって、はじめて不登校の問題に取り組んだのは、児童福祉法改正の問題です。教護院が児童自立支援施設に変わるというとき、不登校の子どもが対象とされるのではないかという話がありました。そのとき驚いたのは、当事者の子どもたちがたくさん来たことです。なかでも、15歳の子が自分たちで厚生省の課長にアポイントとって会いに行っちゃったことにはびっくりしました。これは霞ヶ関の歴史がはじまって以来のことだそうです。
不登校の子っていうと、世間では偏見がありますけど、子どもたちがイキイキと走りまわっていた。しかも自分の意見をばんばん言う。そういう意味で、この運動は二重三重の効果がありました。
そのほか、「児童虐待防止法」や児童福祉施設の問題など、子どもをめぐる問題に取り組んできています。
●子どもを大事に
社会はフリースクールのような場ができたり、ずいぶん変わってきました。しかし、一方では相も変わらず、子どもが大事にされていない。社会がこれだけ閉塞感に満ちているのは、未来を荷う子どもたちを大切にしていないからです。
表看板では、日本は進学率も高く、子どもは恵まれていると思われるかもしれない。しかし一番つらい立場の子どもが、どういうふうに扱われているのか、人として尊重されているのか、といったとき、まだまだこれは大きく変えなきゃいけない。
僕が中学校を卒業してから、これだけいろいろ声をあげ、国会で活動し、訴えてきたようなことを、ルートに乗ってきた人はあんまり考えてないんですね。
ですから、今後も、とにかく子どもの側に立って動いていきたいと思っています。(抄録)
2011年4月15日、岩上安身氏が元衆議院議員の保坂展人氏にインタビューして下さった。保坂氏の意外な面がうかがえ、とても面白い内容になっているので、世田谷区民や興味のある方は、ぜひご覧下さい。
http://www.ustream.tv/recorded/14038369
サポーター有志による、書き起こし(主要部分)も『岩上安身オフィシャルサイト』で読める。
これからも保坂氏を応援したい。

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●こんな”時”だから覚せい剤を買えた・・・猫と、また旅に出るかな?
菅首相はもともと一衆議院議員であり今でも一衆議院議員にすぎない。
日本国憲法では、衆議院議員は誰でも国会で行われる首相指名選挙に立候補できる資格がある。国会議員は現に首相に就任している議員が首相にふさわしくないと思えばいつでも国会(衆議院)へ内閣不信任決議をするよう動議ができるのである。
自分のほうが現内閣よりもっとましな政治ができると自負する衆議院議員は、内閣不信任決議動議を行い解散総選挙を戦った後か内閣総辞職後直ちに首相指名選挙を国会に要求し立候補すればよい。ほんの1~2時間でできることだ。国家の非常事態である現在、新首相選出のたったこれだけの手間に、何日も時日を浪費することが許されないのは自明の理である。(解散総選挙を選ぶ首相がいれば判断力低下した精神障害有病者の疑いで強制検査入院が必要となるので自動的に内閣総辞職となる)
そんな簡単なことがわからぬ愚かな臆病者卑怯者の国会議員が、全員そろってくだらぬ政局ごっこに興じて衆愚政治という腐臭きわまりなき人災の害を国中へ垂れ流して貴重な時間を無駄にしているのが現在の日本国破廉恥国会である。
目を国会ではなく国土へ転ずれば一目瞭然。
国の本当の主権者である被災者国民が日々塗炭の苦しみの中で傷つき弱って命を失っていっているというのに。
辺野古高江で防衛局の強制執行暴力で住民や海に生きる人びとが日々傷つけられているというのに。
新燃岳の噴火で周辺住民国民が人力で制御できない巨大な力の天災被害に遭って日々苦しんでいるというのに。
無謀な都痴爺に負けずに、世田谷から原発縮小、廃止へと進めてください。
原発事故から一ヶ月以上たつのに今だ終息の見えない汚染。
余震も続く中、いまだに稼動し続ける44基の原発、東海地震もいつ来るかわからない中で安全確保もできていない原発を稼動させるのは政治の怠慢でしょう。
唯一の被爆国が、自国の原発によって被爆、稼働中の原発がいつ被爆の原因になるかもしれない現実。国民の安心、子供たちの将来に対する安全な国づくり、国家議員の責任です。
震災ごの対応にこれだけ差が出たのは国会議員の質の差でしょう。
ニュースでいち早く仮設住宅建築を報じていた時、さすが岩手県は違うな!と思っていました。やはり小沢氏の指導が多かったとわかりました。同じ国会議員なのに、この差は?
パフォーマンスの菅内閣。地元救済を第一に行動する小沢派議員。
増税ありきで会議ばっかりしている暇は無いはずです。
被災地での生活は日々続いているのです。
菅内閣は被災地を見て、なにも感じないのでしょうか?
インターネット規制をするより、もっとネットを活用し、被災地の方からの情報収集に活用するとかあるはずです。
早々に、菅内閣は総辞職をし、本来の仕事ができる人たちに替わっていただきたい。
とらchanが吼えてます。
《THE JOURNAL》 2011年4月22日 23:28
東日本大震災津波・岩手からの報告 日本一新の会 達増拓也(岩手県知事)
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/51810579.html#more
by 晴天とら日和
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/04/post_759.html
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世田谷区長選 前社民衆院議員・保坂氏が初当選 脱原発訴えだけでは無い