2011.02.08 (Tue)
小沢氏秘書の初公判は究極の税金の無駄遣いにすぎない
石川議員の再聴取録音の文字起こしを読むと、田代政弘検事が、検察側のつくったストーリー通りに石川議員の供述を維持するために、優しい言葉で誘導しているのがわかる。
この日の初公判の模様や、石川議員の再聴取録音の文字起こしに関しては、とらちゃんがその日のうちにいち早く伝えてくださった。又、『ことば・その周辺』のシカゴ・ブルース氏も、公判を傍聴した江川紹子氏、『THE JOURNAL』編集部、中村哲治民主党参議院議員らのTweetをまとめて転載してくださっている。彼らのつぶやきを読むと、その生々しい公判の様子が伝わってきた。
そもそも、この公判では、期ずれ処理や小沢議員の関連団体間の資金移動が不記載や虚偽記入とされたことが問題となるはずなのに、江川氏によると、まるで水谷建設のダム建設工事受注を巡る贈収賄事件のような検察による長々とした冒頭陳述から始まったそうだ。つまり、期ずれという形式犯だけで、公判を有罪に導くのは難しいため、全く関係のないフィクションを含めて、この事件がさも悪質であるようなイメージ作りを成功させたかったのであろう。
これよりも、もっとひどい政治資金法違反をした自民党の政治家はごまんといるのに、そういった者達を見逃し、小沢氏だけをこのようないわば魔女裁判にかけるとは、あまりにも不公平ではないか。それも、専門家の間では、無罪の見通しが一般的であるのに、小沢氏に悪人のイメージを植え付けるのが目的だけのパフォーマンス裁判なのだ。究極の税金の無駄遣いではないか。
無罪が確定したときは、何の証拠もないのに、ただなんとなく、検察に言われる通りに議決を強制起訴に持ち込んだ実体のない怪しい東京第5審査委員と指定弁護士が、この費用を負担するべきではないか。そうでもしない限り、市民の名を借りた不当な人民裁判は後をたたないだろう。
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参考記事:花岡信昭の「我々の国家はどこに向かっているのか」
小沢氏はこのまま政界から消えるのか
2011年2月3日
現実となった小沢一郎氏の強制起訴
小沢一郎氏の強制起訴は以前から予想されていたのだが、その事態が現実のものとなると、格別に重い意味合いを突き付けるものだ。
大方のメディアは小沢氏に対し、政治の表舞台からの退出を求めている。だが、この20年ほどの日本政治を切り盛りしてきた小沢氏の存在感、政治的パワーを考えると、そうなるのかどうか、にわかには判断しがたい。
小沢氏は「なんらやましいところはない」として、離党も議員辞職もする考えはないとしている。菅首相は「不条理の政治をただす」と威勢がよかったのだが、実際に強制起訴が決まると、「出処進退は自身で判断を」とトーンダウンした。
民主党の倫理規約によれば、倫理規範に反する行為を取った場合の処分として、「党員資格の停止」「離党勧告」「除籍」という3段階の対応ができる。党の対応が注目されるが、最も軽い「党員資格の停止」ということになりそうだ。
展開によっては「小沢新党」の可能性も
離党を勧告して、本人が応じなかった場合は党執行部の権威を損ねかねない。除籍という重い処分をくだせば、小沢氏が「新党」を立ち上げる恐れに直面する。
たとえ20人でも30人でも離脱者が出れば、衆院で与党勢力が再議決可能な3分の2にわずか及ばず、参院では過半数に達していない状況からすると、この段階での党分裂は避けたいというのが菅首相の本音だろう。
政治を見る目としては、そうした「小沢新党」ができて政界再編の引き金となり、これが大連立・中連立に発展していけば、ワクワクするような政治状況となるのだが、見守る以外にない。
現実的な判断としては、小沢氏の「単独離党」が落としどころのように思えるが、菅首相らには、そういう環境をつくれるかどうかが試されることになる。
政治の世界の攻防戦としては、小沢氏を追い詰めるだけでは決着がつかない。つまりは、党の窮地を救うための離党という名分を小沢氏側が持てるかどうかという状況を生み出さないといけない。
そういう構図になれば、小沢氏が党外から小沢系グループを差配することになるのだろうが、菅首相としてはそれも甘受せねばなるまい。党分裂よりもまだ救われるからだ。
メディアは一斉に退陣を勧告
刑事被告人の立場になる小沢氏だが、これによって政界の表舞台から本当に「消える」ことになるのかどうか。
新聞各紙の社説はそろって、小沢氏や民主党に「けじめ」を求めた。2月1日付の各紙社説の見出しを並べてみると、それぞれ微妙な差異があって興味深い。
朝日 「市民の判断に意義がある」
毎日 「まず離党してけじめを」
読売 「政治的なけじめをつける時だ」
産経 「やはり議員辞職しかない 国民代表の結論無視するな」
日経 「民主党は小沢元代表の起訴でけじめを」
日ごろは対立する主張を掲げることも多い朝日と産経が、検察審査会について「市民の判断に意義」「国民代表の結論」と高く評価していることも、おもしろいといっては何だが、「小沢排除」の認識では共通しているのだなと改めて感じさせる。
「魔女裁判」に堕す恐れあり
一般の国民からくじ引きで選ばれる検察審査会による強制起訴のシステムは、2009年5月にスタートした。裁判員制度の導入と同時期だ。
検察当局の判断に対し、検察審査会が起訴すべきだという議決を2回行うと、弁護士を検事役とする公判に持ち込まれる。重い判断が求められるから、11人のうち8人以上の賛成が必要だ。いうまでもなく、政治家で強制起訴されたのは小沢氏が初めてである。
裁判員制度と同様、司法の場に「市民の視点」を持ち込むべきだという観点から導入された。これまで、検察にしろ裁判にしろ、プロだけで行われていた領域に「市民的感覚」を反映させようというわけだ。いわゆる「市民参加」の司法版である。
その意図は分からないでもないが、ひとつ間違うと「大衆迎合」(ポピュリズム)の舞台になりかねない。市民的判断を旗印にして、魔女狩りに近い状況が生まれ、その喧騒のなかで国民にはカタルシス、満足感のようなものが与えられる。
裁判員制度と同様に、検察審査会の強制起訴制度にも、そうした危うさが潜んでいることを改めて認識すべきではないかとも思う。
専門家の間では「無罪」の見通しが一般的
小沢氏が問われているのは、資金管理団体「陸山会」の土地購入にからみ、小沢氏からの提供資金の借用に関して、政治資金収支報告書に正確に記載しなかったという政治資金規正法違反罪である。
元秘書3人がすでに逮捕、起訴されており、検察当局は小沢氏の関与については嫌疑不十分として不起訴とした。元秘書らとの「共犯」関係を立証できなかったのである。
これを検察審査会は小沢氏が知らなかったというのはおかしいとして、公開の裁判の場で判断するよう起訴を求めたわけだ。
この土地購入をめぐっては、ゼネコンからの「ヤミ献金」や旧新生党の資金をめぐる不明朗な処理なども指摘されたが、強制起訴されたのはそうしたこととは別の次元だ。あくまでも政治資金収支報告書の記載がおかしいのではないかという疑惑である。
したがって、この裁判で小沢氏は無罪になるのではないかとする見方が、法律の専門家の間では一般的なようだ。東京地検があれだけ長期にわたって捜査を展開しても詰め切れなかったのである。
公判は指定弁護士が検事役となり、法律のプロの裁判官が裁く。指定弁護士は「有罪を確信するから強制起訴するのではなく、起訴議決が行われたので、これが職務と考えて起訴した」としている。
そのあたりをシビアーに見ていく必要がある。国民レベルでは「政治とカネ」の問題に決着をつけよという過大な期待が出ているかに見えるが、今回の強制起訴がそれに応えるものとなるかどうか分からないのだ。
メディアの扱いや世論の沸騰が時間の経過とともに落ち着いていけば、小沢氏側に有利な状況がうまれてくるかもしれない。政治の世界の転換は早いのであって、公判開始と見られている今秋の時点で、どういう雰囲気になっているかは微妙だ。
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小沢元代表の強制起訴に見る、検察審査会の危うさ
(Business Media 誠 2月7日)
小沢一郎元民主党代表が強制起訴された。これを受けて、政治家としての責任論や民主党としての処分、あるいは国会喚問といった議論がかまびすしい。民主党の失点として攻撃する自民党をはじめとする野党、党内権力闘争で小沢一派を蹴落とそうとする民主党非小沢派とが、ある意味、不毛な争いを繰り広げている。政治もマスコミも「強制」という言葉に寄りかかって、いかにも“怪しい政治家”というイメージづくりに狂奔しているかのようだ。
検察審査会のあり方
小沢氏自身はかつてこう語ったことがある。検察が2度にわたって起訴を断念したのだから「自分は真っ白」だと。しかし検察の起訴断念と「真っ白」とは同義ではない。「黒であることを公判で立証するのが難しい」ということが断念した理由である。だからこそ検察審査会が2度にわたって起訴相当とした。
しかし検察審査会のあり方には強烈な違和感がある。個人を罪に問えるのは、国家である。だから国家組織としての検察庁が存在し、そこが組織としての判断に基づいて、人に刑事責任を問う(もちろん国家がそれだけの正統性をもっていることが条件だ)。はるか昔には、小さなコミュニティが罪に問うたこともあるが、およそ近代国家では人を罪に問うのは国家に限られる。
検察審査会とは一般市民から無作為に選ばれた人々が、検察庁という司法機関の判断に対し、信用できないとか納得できないと異議申し立てをする機関だ。2005年の法改正前は、検察審査会の判断に強制力はなかった。検察は再度捜査した上で検察審査会の判断を無視することもできたのである。しかし今では検察の判断を超えて、起訴することが可能になった。これが強制起訴である。
検察審査会が小沢氏の強制起訴を議決したときに出した議決要旨にはこうある。「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当で、国民は裁判所に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものだ。嫌疑不十分として検察が起訴をちゅうちょした場合、国民の責任で公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度だ」
強制起訴となった1月31日、小沢氏本人が声明の中で、検察による通常の起訴のように「有罪の確信」があってやっているわけではないと反論した。確かに、この議決文に表れた考え方はどうにも納得できないところがある。1人の人間を起訴するのは国家の権利であるが、同時に圧倒的な権利であるだけにそこには強い制限がある。それはそうだ。むやみに「怪しい、有罪の可能性がある」などと言って起訴されては、個人の権利などあったものではない(国家というものがどれだけ反体制派の人々を、あやふやな罪状によって起訴し、裁判にかけて刑務所や強制収容所に送り込んできたか。その例は枚挙にいとまがない)。だからこそ、近代国家では個人の権利を侵害する(身柄を拘束したり家宅捜索をする)には相当の理由がなければならず、捜査当局だけでなく裁判所の許可が必要とされる。
「人民裁判」になりかねない
そう考えると、検察審査会の言う「有罪の可能性がある」ということと、検察庁が起訴の根拠とする「有罪になる高度の見込みがある」ということの間に存在する天と地ほどの開きに改めて驚かざるをえない。刑事裁判の被告人として法廷に引き出されることになれば、その人はもちろん通常の生活を送ることはできない。長期にわたる裁判の過程で、もし被告人になっていなければできた活動も、得られた利益も失うことになる(障害者郵便制度不正利用事件で起訴され、昨年無罪がとなった厚生労働省の村木厚子氏も、1年以上にわたって休職処分となっていた)。
だからこそ「有罪になる高度の見込み」が要求される。しかし、議決要旨はこう言う。「国民は裁判所に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利がある」。一見、正しそうに見えるこの一文には、危険なワナがあると思う。強制起訴は国家権力の行使である以上、「有罪であることを確信するだけの根拠」が絶対に必要であるのに、「黒白をつける」などとまるで民事裁判のような言い方だからだ。
しかも無作為で選ばれた11人の検察審査会のメンバーは、「国民の代表」というだけの正統性を有していない。その人たちの素性も審査の過程も何も明らかにされないのでは、正統性など主張できるはずもない。裁判員裁判でも、裁判員を自分の「代表」とは思わないし、人を裁くことが自分の権利であるとは考えない。
国家権力を国民が監視することは、民主主義社会として必要だ。それは歴史によって育まれてきた知恵でもある。しかし「国民の名の下に」権力の行使をすることにはよほど慎重でなければなるまい。「国家」と「国民」は決して同じものではないからである。
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