2008.04.28 (Mon)
『きっこのブログ』「人の痛みが分からない人たち」を読んで
『きっこのブログ』では日曜日の朝、書かれていたブログが突然削除されていた。私はその記事を読んでいないけれど、「人の痛みが分からない人たち」というエントリーが私や花岡氏の名前に触れずに書き直された記事と思われる。人を名指しで議論をふっかけてもいいじゃないかというのが私の信念なので、きっこちゃんがなぜ前の記事を削除したのかよくわからない。
これは日本で多く見られる傾向で、ほとんどの人が議論と個人的な友好関係を結びつけてしまう傾向にある。違う意見を表明すると仲が悪くなるとか、人間関係にひびが入るとかだ。欧米では、これは全く逆で、個人の意見を尊重し、議論は議論、友好関係は友好関係と別なものととらえられているので、私はカナダ式でいきたいと思う。このエントリーでは私の意見を書こうと思う。きっこちゃんはどうかわからないけど、でも、私はこれによってきっこちゃんとの愛人関係(笑)友好関係が失われるとは思っていない。
まず最初に、上述のエントリーを読んだ時、きっこちゃんが、かなり感情的になっているという感想を持った。まるで、光市母子殺害事件の加害者を自分をレイプした犯人達と同一視しているようだった。でも、人間は、自分の経験を通して自分の思考を生むものだから、それもわからないわけではない。加害者の年齢も近いし・・・・。きっこちゃんが、自分のレイプ犯を憎むあまりに、光市母子殺害事件の加害者を初め、女性をレイプするものは全て憎むという理屈はよくわかる。
上述のきっこちゃんのエントリーを読んで、まず一番最初に反論したいことは、この光市母子殺害事件の死刑判決が重すぎると言っている人たちは被害者の痛みがわからないと決め付けていることだ。誰だって殺された母子や二人を一度に失った本村氏の悲しみや痛みは容易に想像できるし、わかっている。その痛みがわからないから、加害への死刑という刑が重過ぎると言っているわけではないのだ。遺族が殺されたことのない人だって遺族を殺された人の痛みがわかるように、レイプされたことがなくたってレイプされた人の痛みはわかる。そういった感情論と刑法の問題を一緒に論じることが間違っているということだ。あまりも感情的になりすぎると、論理的な思考能力が欠けてしまう。死刑について日本の刑法を語る時、感情があってもそれをすべて取り去って議論しなくてはならない。さもなければ単なる感情論となってしまうからだ。あえて感情抜きで議論をする人たちを「人の痛みがわからない人たち」としてしまうのはいかがなものだろうか。
この事件で死刑が重すぎると考える人たちは、被害者遺族を思うからこそだ。ただ単に加害者を死刑に処すれば、こういった事件がなくなるというわけではない。又同じ事件が繰り返される。ずっと前に書いたけど、死刑制度のないカナダでは日本よりもずっと凶悪殺人の犯罪率が少ないのだ。2度とこのような残酷な事件を起こさないためには、死刑囚を増やすのではなく、社会を変えて行かなくてはならない。本村氏が言っているように、これだけ悲しみを背負った遺族でさえ、死刑という制度によって死ぬ人が存在するのは耐えられないことなのだ。
死刑制度を廃止することは、この加害者を死刑にすることによってのみ得られる瞬間的満足度よりも貴重なことで、長期的に人々が幸せに暮らしていくには、こういった残酷な罪を犯す者を日本社会からなくすことに限ると思う。そのためには、
磯谷利恵さん殺害事件について思うこと
という記事に書いた通り、他人を尊重する教育に重点を置きながら日本の社会構造を変えて行かなければならない。その上で、最終的には死刑制度をなくさなければならない。それには、長い時間と多くの努力が必要だろうと思うが、日本人がもっと平和に暮らすためには必要なことだと思う。
このところ、日本の最高裁での判決のあり方は厳しすぎると思う。少し前には、最高裁は、何の落ち度もない妻を保険金目当てで殺害させても証拠不十分という理由で三浦和義を無罪にした。いくら自分で手を下していないとはいえ、家族で一番大切にするべき妻を2度も他人に殺させようとしたのだ。一度目は失敗したが、二度目には目的を達成した。妻以外にも同じ会社、フルハムロードで働く白石千鶴子さんの殺害も疑われており、彼女が殺害された後、彼女のクレジットカードから現金を引き出していたのが三浦和義なのに、なぜか白石千鶴子さんの殺害に関しては全く罪に問われていない。
ところが、最近では、光市母子殺害事件を初め、結婚後すぐに家庭内暴力を受け始め、それ以降ずっと虐待され続けて、それがいやになって夫を殺害した妻、三橋歌織被告が懲役15年の判決を受けた。
三橋歌織被告の場合は、二人の鑑定医が被告が犯行時に精神障害を発祥していたと述べただけでなく、「行動制御能力を喪失していた」と責任能力がなかったことを証言しているにもかかわらず、判決では、この鑑定医の証言はほとんど無視され、本来は無罪になるはずが、休憩20年が15年に減刑されただけの判決となった。
ちなみに、死刑制度のある米国でも、弁護側から責任能力に関する主張がなされると、裁判所は精神科医に鑑定を依頼する。鑑定結果で「責任能力なし」となると、検察側は正式裁判を断念することがほとんどだそうだ。
この二人の鑑定医の「責任能力なし」という証言から本来は無罪になるはずだった三橋歌織被告の判決も光市母子殺害事件と同じく重すぎる判決だったと言わざるを得ないだろう。
来年から日本では国民が裁判員として裁判官とともに審理に参加する裁判員制度が始まると言う。この議論をきっかけに多くの人が日本の司法制度や刑法について興味を持ってくれたらと思う。
最後にきっこちゃんへ
辛い思いをしたきっこちゃんがいまだにその当時の夢を見てうなされるほど、そのレイプ犯が憎いのはよくわかるよ。でも、いつまでもその犯人に恨みを抱いていると自分が辛くなるだけだと思う。事件を忘れることはできないだろうから、難しいこととは思うけど、犯人を許して、自分もその事件から解放された方がいい。そうすることによって、今よりももっともっと世界は広がっていくのではないかと思うよ。きっこちゃんが罰をくださなくったって、一人は罰を受けたじゃない。悪い奴は自然に悲惨な運命をたどるようになる。きっこちゃんがそいつらを怨んだからって何も変わらない。きっこちゃんが辛い思いをするだけ。きっこちゃん、この事件から自由になって、どうか、幸せになってください。
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まず最初に、上述のエントリーを読んだ時、きっこちゃんが、かなり感情的になっているという感想を持った。まるで、光市母子殺害事件の加害者を自分をレイプした犯人達と同一視しているようだった。でも、人間は、自分の経験を通して自分の思考を生むものだから、それもわからないわけではない。加害者の年齢も近いし・・・・。きっこちゃんが、自分のレイプ犯を憎むあまりに、光市母子殺害事件の加害者を初め、女性をレイプするものは全て憎むという理屈はよくわかる。
上述のきっこちゃんのエントリーを読んで、まず一番最初に反論したいことは、この光市母子殺害事件の死刑判決が重すぎると言っている人たちは被害者の痛みがわからないと決め付けていることだ。誰だって殺された母子や二人を一度に失った本村氏の悲しみや痛みは容易に想像できるし、わかっている。その痛みがわからないから、加害への死刑という刑が重過ぎると言っているわけではないのだ。遺族が殺されたことのない人だって遺族を殺された人の痛みがわかるように、レイプされたことがなくたってレイプされた人の痛みはわかる。そういった感情論と刑法の問題を一緒に論じることが間違っているということだ。あまりも感情的になりすぎると、論理的な思考能力が欠けてしまう。死刑について日本の刑法を語る時、感情があってもそれをすべて取り去って議論しなくてはならない。さもなければ単なる感情論となってしまうからだ。あえて感情抜きで議論をする人たちを「人の痛みがわからない人たち」としてしまうのはいかがなものだろうか。
この事件で死刑が重すぎると考える人たちは、被害者遺族を思うからこそだ。ただ単に加害者を死刑に処すれば、こういった事件がなくなるというわけではない。又同じ事件が繰り返される。ずっと前に書いたけど、死刑制度のないカナダでは日本よりもずっと凶悪殺人の犯罪率が少ないのだ。2度とこのような残酷な事件を起こさないためには、死刑囚を増やすのではなく、社会を変えて行かなくてはならない。本村氏が言っているように、これだけ悲しみを背負った遺族でさえ、死刑という制度によって死ぬ人が存在するのは耐えられないことなのだ。
死刑制度を廃止することは、この加害者を死刑にすることによってのみ得られる瞬間的満足度よりも貴重なことで、長期的に人々が幸せに暮らしていくには、こういった残酷な罪を犯す者を日本社会からなくすことに限ると思う。そのためには、
磯谷利恵さん殺害事件について思うこと
という記事に書いた通り、他人を尊重する教育に重点を置きながら日本の社会構造を変えて行かなければならない。その上で、最終的には死刑制度をなくさなければならない。それには、長い時間と多くの努力が必要だろうと思うが、日本人がもっと平和に暮らすためには必要なことだと思う。
このところ、日本の最高裁での判決のあり方は厳しすぎると思う。少し前には、最高裁は、何の落ち度もない妻を保険金目当てで殺害させても証拠不十分という理由で三浦和義を無罪にした。いくら自分で手を下していないとはいえ、家族で一番大切にするべき妻を2度も他人に殺させようとしたのだ。一度目は失敗したが、二度目には目的を達成した。妻以外にも同じ会社、フルハムロードで働く白石千鶴子さんの殺害も疑われており、彼女が殺害された後、彼女のクレジットカードから現金を引き出していたのが三浦和義なのに、なぜか白石千鶴子さんの殺害に関しては全く罪に問われていない。
ところが、最近では、光市母子殺害事件を初め、結婚後すぐに家庭内暴力を受け始め、それ以降ずっと虐待され続けて、それがいやになって夫を殺害した妻、三橋歌織被告が懲役15年の判決を受けた。
三橋歌織被告の場合は、二人の鑑定医が被告が犯行時に精神障害を発祥していたと述べただけでなく、「行動制御能力を喪失していた」と責任能力がなかったことを証言しているにもかかわらず、判決では、この鑑定医の証言はほとんど無視され、本来は無罪になるはずが、休憩20年が15年に減刑されただけの判決となった。
ちなみに、死刑制度のある米国でも、弁護側から責任能力に関する主張がなされると、裁判所は精神科医に鑑定を依頼する。鑑定結果で「責任能力なし」となると、検察側は正式裁判を断念することがほとんどだそうだ。
この二人の鑑定医の「責任能力なし」という証言から本来は無罪になるはずだった三橋歌織被告の判決も光市母子殺害事件と同じく重すぎる判決だったと言わざるを得ないだろう。
来年から日本では国民が裁判員として裁判官とともに審理に参加する裁判員制度が始まると言う。この議論をきっかけに多くの人が日本の司法制度や刑法について興味を持ってくれたらと思う。
最後にきっこちゃんへ
辛い思いをしたきっこちゃんがいまだにその当時の夢を見てうなされるほど、そのレイプ犯が憎いのはよくわかるよ。でも、いつまでもその犯人に恨みを抱いていると自分が辛くなるだけだと思う。事件を忘れることはできないだろうから、難しいこととは思うけど、犯人を許して、自分もその事件から解放された方がいい。そうすることによって、今よりももっともっと世界は広がっていくのではないかと思うよ。きっこちゃんが罰をくださなくったって、一人は罰を受けたじゃない。悪い奴は自然に悲惨な運命をたどるようになる。きっこちゃんがそいつらを怨んだからって何も変わらない。きっこちゃんが辛い思いをするだけ。きっこちゃん、この事件から自由になって、どうか、幸せになってください。
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