2012.03.20 (Tue)
佐藤幸子さんインタビューとバンダジェフスキー博士の記者会見
ポスト311時代を生きる~更地からはじめよう~
Uploaded by OPTVstaff on Mar 15, 2012
子どもたちを放射能から守る福島ネットワークの代表佐藤幸子さん。福島県川俣町で、30年以上にわたって農薬を使わない自然農法に取り組んで来た。311以降は、都内の市民団体からガイガーカウンターを借り、学校の校庭等をいちはやく測定。文科省が設定したいわゆる「子ども20ミリシーベルト基準」の撤回を求め、当初から発言を続けてきた一人だ。原発事故という厳しい現実を見据えながらも、地に足をつけて生きる佐藤さんの原点とは?佐藤さんとともに、1年を振り返りポスト311時代に、日本はどうあるべきかを考える。
ゲスト:佐藤幸子(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)
http://kodomofukushima.net
放送日
★テレビ(朝日ニュースター)
日 時:3月15日(木)23:15~23:45
再放送:3月16日(金)8:00~8:30、 3月17日(土)9:00~09:30、3月18日(日)15:00~15:30
http://asahi-newstar.com/web/55_contact/?cat=18
★ネット(OurPlanetTV)
日 時:3月15日(木)23:15~オンデマンド配信
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1324
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制作:OurPlanetTV
http://www.ourplanet-tv.org
Tags : 福島第一原発事故 |
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2012.01.27 (Fri)
菅谷昭氏が脅迫を受けて横浜での講演を中止していた
下記の動画を見てもおわかりのように、菅谷氏は、チェルノブイリ原発事故後にベラルーシで長年医療活動を行われていたため、放射能汚染内部被曝の長期的課題や健康障害などについてとても詳しい。
松本市長 菅谷昭氏 2011/3/22
定例記者会見 内部被爆に関するコメント 1/2
言論の自由が保障されているはずの民主主義国家の日本で、このような言論統制があるというのは、時代錯誤もはなはだしい。本来は、最悪の事態に備える準備をするために国民に伝えるべき情報が、原子力村の工作によって伝えられなくなり、被曝被害を増加させるという悪循環が繰り返されている。
菅谷市長側が講演が中止になった理由をこのようにはっきりとブログで公表したことは評価できる。しかし、こういったことはメディアは一切報道しないので、さらに、どういった人物がこのようなあくどいことをしているのかを全国民に知らせるためにも、脅迫したのが誰なのかを公表し、脅迫罪で訴えるべきだ。
国民にそのメディアの主筆が誰であったのかを伝えることによって、国民はそのメディアを徹底的に拒否することも可能となる。公の立場でこういったことを公表するのは難しいだろうが、ぜひ、勇気を持って公表していただきたいものだ。
Tags : チェルノブイリ原発事故 |
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2011.11.17 (Thu)
ナジェージュダちゃんの日記
マリノフカは、チェルノブイリから300KMも離れているにもかかわらず、ホットスポットだったために、放射能汚染がひどかったようだ。日本でも福島から離れているからといって安心していられない。
イーゴリ・マローズ 第四中等学校十一年生 シュクロフ町
祖母の住むマリノフカが汚染のひどいところだということを、当時はまだ誰も知らなかった。
そこにはずっと昔から、野生のナシの木があった。いつごろからあったのか誰も知らなかったが、それは祖母の庭にはえていた。
その夏、マリノフカには、すでに放射能が舞い降りていた。しかし人々は、これから恐ろしい不幸がおこるなどとは予期していなかったし、誰もこの古い大木にも死の兆候が表れているなど思ってもみなかった。
その木は、庭のほとんど三分の一を日陰にするので、村の人達は何度もこの木を切り倒すように祖母に助言した。
しかしその都度、祖母は断り、こう言った。「そんなことしちゃだめなんだよ。その昔、この木の下に、罪のない女の子の血が流されたんだから」と。
遠い昔の農奴の悲しい死の伝説を知ってる人はたくさんいたけれど、みんながそれを本当のことだと信じていたわけではない。だけど、私の祖母は信じていた。この驚くべき古木は、祖母にとって聖なるものなのである。
僕のいとこのナジェージュダは、このナシの木が好きだった。その年の夏休みにも彼女は祖母のところにやってきた。その夏は蒸し暑く、沈んだ雰囲気だった。でもおばあちゃんのいるマリノフカは、とても美しかったし、広々としていた。
ナジェージュダは夏中、祖母の菜園に滞在し、種蒔きなどの手伝いをした。
また彼女は森へ行って、イチゴやキノコを集めたり、近くの川で日光浴や水遊びもした。
ある日、地区のなんだかえらい人が来て、「村の土や水や空気はとてもきれいであります。ここは安心して住んでいただきたい。」と言って帰って行った。だから村人たちは安心して住み続けた。
大きく枝を張り、葉を茂らせたナシの木の下で、ナジェージュダは水彩画を描いた。彼女は画家になることを夢見て、美術研究所で勉強していた。
彼女はその夏、とても美しくなった。
十五歳だった。少女からレディーになった。
彼女は日記を書きはじめ、そこに秘密の想いや印象を書き残した。
しかし、この日記には、その後、腫瘍専門病院での苦しみが書かれることになる。
彼女の日記に書かれたことは全て、言葉で言い表せないほど、僕を揺り動かした。
とりわけ、最後の十日間分の内容はそうだった。
何という希望、生への渇望、人間的尊厳だろうか。何という悲劇、取り返しのつかないわざわいを感じていたのだろうか。
今、この日記は僕の手元にある。
僕はこの勇気と真の崇高さが記されたナジェージュダの日記の、最後の数日分をここに紹介したい。